カーテンを開け放たれた窓のすべてから、青白い月光が寝室のなか全体を照らしだしていた。
アリスター・ロスフィールドは、自分が、長い時間、月光に晒されて眠っていたことを知った。
微かな狼狽が、心の裡に起こり、血管を通して、全身にしみわたっていった。
やがて心臓にまで達し、鼓動が乱れるのが判った。
−−月光を浴びてはならない。
特に、満月の、冴々と澄みきった、明るい光を浴びてはならないと、マクレランの一族は皆、厳重に戒められて育ったのだ。
月の光は、裡に潜んでいる狂気を喚び起こす力があるからだ。
そのために、ロスフィールドの生家、−−マクレラン家では、代々、月齢を数える専門の女を雇っていたくらいだ。
満月の夜には、屋敷中の鎧戸をかたく閉ざし、ひっそりと過ごさねばならなかった。
あたかも、陽光を恐れる吸血鬼のように、満月の、豊饒な光を恐れたのだ。
マクレランほど、旧く、由緒正しい血筋を重んじる一族では、因襲は永遠に受け継がれるのだ。
しかし、今、月の光に全身を晒したままで、ロスフィールドは双眸を閉じた。
マクレランの一族の中でも、もっとも濃い血を承け継いでいながら、月光へ挑むかのようにしたのだ。
月の光が、身体を舐めてゆくのを感じる。
纏っているナイトガウンの襟元をゆるめて、さらに、光を素肌にあてた。
時の間、月光に身を炙らせていたロスフィールドだが、鋭い光が遮られたのを感じ、眸をあけた。
窓べに、しなやかな黒い影が立っていた。
月の光に長く伸びた影が、寝台の足元にまで達している。
「ジン……」
呼ぶと、全身に黒を纏った影がロスフィールドに近づいてきた。
こんなにも、部屋の中は月光によって明るいというのに、寝台の傍らまできてようやく、ジン・ミサオの白い貌が、浮かびあがって見えた。
黒い水晶の輝きを宿した眸に瞶められているのを、ロスフィールドは感じた。
通った鼻筋の下にある口元には、東洋の仏像にみる神秘的な、美しい容の微笑が浮かんでいる。
五年経った現在でも、初めて彼を見た日のことを思い出す。
美しく整った日本の男。
ロスフィールドは初めて、美しいと思える人間にであったのだ。
もちろん、ロスフィールド自身、自分が美貌である事実は知っているが、彼にとっての美の基準は、自分の貌ではなかったから…。
「目が醒めましたか?」
心にしみ入るしっとりとした声音が、ジンから発せられ、ロスフィールドは、身体の裡が潤うのを感じた。
声は元より、ロスフィールドは、彼の貌も、髪の黒さも、なにもかもが好きだった。
手の感触、口唇の感触、肌の柔らかさ−−…。
それ以上に、普段垣間見せない、裡にある激しい情熱に、惹かれているのだ。
「いつ…、帰ってきたのだ?」
屈みこんできたジンが、口付けてから、言った。
「昨日のうちに」
「昨日?」
「あなたは、まる一日眠っていたのですよ、アリスティア…」
なだめるような、ジンの声音。
「一日中?」
まだ眠りが解けていない気がして、ロスフィールドは長い指で額口をおおった。「アリスティア…」
耳元で、ジンは甘く囁いた。
「あなたの裡にはまだ、スタンレーの情熱が残っている…」
しめやかな声音。
ロスフィールドが、銀青色の双眸をみひらいた。
「怒っているのか?、−−…ジン」
「黙って…」
それから、たがいの瞳をみつめあいながら、瞳の奥にある感情を交換しあった。
顔の角度をかえ、二人はまた、口唇を合わせた。
たがいに、何度も、口唇を貪るように、求めた。
瞳は、どちらも閉じなかった。
ロスフィールドは、黒水晶に魅入られ、ジンは、金色の縁取りがある薄青い瞳に心を奪われていた。***
今宵の満月は、異常に大きく感じられた。
まるで、ジンが、ロスフィールドのために、月の軌道を狂わせ、地球に近づけたかのようだった。
愛するロスフィールドを、優しく、慰めるために…。「アリスティア、わたしは、あなたが欲しいのです」
ジンからもたらされた欲望の言葉を、ロスフィールドは、深く、肺に吸い込み、身体の隅々にまで行き渡るように、息を止めた。
それからゆっくりと、空気だけを、吐き出した。
身体のなかに、ジンが放った欲望だけが残った。
たまらずに、ロスフィールドは身悶えを放ち、双眸を閉じた。***
「この雨だ、水量が増せば、どこかに引っ掛かってた死体が流れ出す…」
夏の終わりの雨は、一夏の輝かしい思い出も、汚れも洗い流す勢いで降り続けているのだ。
「夜中までは、きれいな満月だったんだぜ。うちじゃ、興奮したチビどもを寝せつけるのに大変だったくらいだ」
「満月の晩に、異常犯罪が多いって統計があるらしい」
どこで読んだのかは忘れたが、スタンレーがそう口走ると、バートが、意外だという顔つきになった。
おおよそ、スタンレーらしくないと思ったのだ。
「そういうのを、なんて言うのか知ってるか?」
面白そうに、歌うような調子でバートが訊いた。
「さぁな、そこまでは判らん…、でも、なんだろう?、ルナティック?」
曇りかけている窓ガラスに、スタンレーは「LUNATIC」と指で書いてみた。
するとバートが、半ば頷きながらも、
「いや、バイオタイドだ」と、言い、卓上の紙に、「BIOLOGICAL TIDES」と、書き込んで見せた。
「なんだよ、それ?」
「身体の中にある水分さ、人間の血液中には、海水と同じ成分の液体があるんだぜ、それが、月の満ち欠けによって影響を受け、攻撃的な人格を造るんだ」
「お前が考えたのか?」
まさか、とバートが肩を竦めた。
「研究書が出てるぜ、図書館で読んだんだ」
それから、書類の影に隠して書いていたクロスワードパズルの一区画にも、「BIOLOGICAL TIDES」と書いた。
バートにだって、叩けば埃がでる。
警官の副業は禁じられているが、彼は、クロスワードパズル専門誌の出題をアルバイトにしているのだ。
知られたら、どこかの分署に飛ばされるだろう。
「じゃあ、バート、これから秋にかけて月のきれいな夜は、俺たちの仕事が増えるってことか?」
すべからく、問題を単順化する傾向にあるスタンレーがそう訊き、バートが、指先をヒラヒラさせて否定した。
「いんや、悪党は、いつでも異常だけどな…」***
真意を計りかねて、だが一応スタンレーは、牽制だけは放った。
「俺はもう、運河の方にまわされましたよ」
かすかにロスフィールドが頷いた。
知っていたのだろう。
それから口唇が、ひらいて、
「運河に浮かぶ死体」と、形づくった。
「臓器を窃られてるらしいんだ」
スタンレーは、決して、警察関係者には見えない、美しく、洗練された、貴族的な男の反応を待った。
「臓器売買…? それは、やっかいだな」
言葉の調子だけを聴くと、ロスフィールドは楽しそうに思えたが、貌は、笑ってはいなかった。
「厄介じゃない事件なんてないんでね。満月が、人間を狂わせるらしいし…」
組んでいた足を崩し、スタンレーは、ソファーから立ちあがった。
そして、知ったばかりの言葉を口にしてみた。
「バイオタイド、とか言うんだ」
完璧な美しさを追及した人造人間のようなアリスター・ロスフィールドの貌に、拈華微笑が浮かんだ。
ハッとされられずにはいられない。
思わずスタンレーの心拍数がはねあがった。
「間欠性精神異常(ルーナシィ)だ、スタンレー…」
なめらかで、豊かなロスフィールドの声に、深みのある艶が交じっていた。
その声を、聴いたのは、寝台の中でだ−−…。
香しい肌、あえかな息遣い。
抱きしめると、同じだけの強い力が、締めつけてくる恍惚感。
流れるような美しい動きで、ロスフィールドは全身の悦びを顕し、淫らになったのだ。
「警視」
いきなり、別のドアからフランク・サイトが入って来たので、急ぎ、スタンレーは、オフィスから出た。
スタンレーは、ロスフィールドに対し、欲情を感じた自分を、誰にも悟られまいとした。
そして、身体の中に湧き起こった病的な欲望が、過ぎ去るのをまった。***
アリスター・ロスフィールドのせいだ。
ふいに気がついて、スタンレーは微かな苛立ちを覚えた。
あの男と寝てしまったからだ。
男同士の、今まで知らなかった鮮烈な世界を、知ってしまったからだ。
「くそッ」
スタンレーは、ミランダに気づかれぬよう、独りごちた。